モバマスと、ひとつの二次創作

モバマスについて。

もう1年近くもモバマスをやっている。しかし、「やっている」と人に言うことができるような状態なのか。1日2回程度アクセスして、ポイントを消費する。その繰り返しだ。課金はまったくしない。しようという気もあまり起こらない。カードへの欲望が湧かない。ピクシブの二次創作も見ている。けれど、何もそこに意味を見出すことができない。愉しいとも愉しくないとも言うことすらできない。ただ習慣としてiPhoneの画面を執拗に叩くだけで、その指の下で繰り広げられる何かに対して言葉を言うことができない。

その理由をなんとなく己は察しているのだが、それを直接名指すことは止めて、私が言葉が見つからないにもかかわらず沈黙できずにモバマスのことを書く理由のひとつである、ある二次創作のことをここでは書こうと思う。

ピクシブでモバマスの、特に諸星きらりという名のキャラクターのイラストを描いているあるアカウントの話だ。名前をひえもんとり、という。

2012年5月12日に彼はイラストを投稿する。有名なアカウントである森キノコのあるイラストに触発されたイラストを投稿する。

http://www.pixiv.net/member_illust.php?mode=medium&illust_id=27189060

見ればすぐさま瞭然することだが、ある種の人々には著しい嫌悪を呼び起こすようなタイプの二次創作だ。蛸壷屋というかの(悪)名高い者に代表されるような、そんなタイプの二次創作。

けれど、彼が描いたこのイラストの内実にはここではまったく立ち入らない。描写の密度の巧緻があっても、このイラスト自体はとても凡庸なつくりだ。諸星きらりというキャラを知って数少なくない人々が思い浮かぶ凡庸さだ。

イラストではなく、それに添えられた彼のコメントに注視しよう。彼が書いた、いや、書いてしまったコメントを。

もうオレは許されない・・・そんなことは判っている・・・(略)がんばれ・・・きらりん・・・CDは大量に買わせていただきます・・・。

このような文を書き、このようなイラストを描いてしまったことを、彼はその後、一身に引き受けることになる。

彼は、この最初のイラストの続編を描き連ね、キャラの死というこの種の二次創作の凡庸さの極みへと描き続けることを余儀なくされる。彼はきらりのイラストを描き続けてしまう。夏コミにきらり本を出して、創作(少年)出身の彼はすぐさま完売したことへの驚きをコメントする。

http://www.pixiv.net/member_illust.php?mode=medium&illust_id=29343808

そして、きらりを描き続けてしまったことの「責任」を、モバマスという仕組みは用意する。

http://www.pixiv.net/member_illust.php?mode=medium&illust_id=28707328

http://www.pixiv.net/member_illust.php?mode=medium&illust_id=29442933

きらりの新しいカードという名のデータを手に入れる、そのために消費する、散財する(あるいは貢ぐと言ってもいいかもしれない)。その行為へと彼を駆り立てる。幸いなことに彼はそれなりに年齢を経ており、幸いなことに彼は金銭を持っていたのだ。

消費することに意味が、「キャラクター」という意味がゆらゆらと立ち上ってくる。その瞬間を、描くことによる再構成ではあるが、かすかに見ることができる。

http://www.pixiv.net/member_illust.php?mode=medium&illust_id=29910597

この作品で、記号的表現から逸脱してしまったかのように、感情をうかがい知ることのできない笑顔を貼りつけた諸星きらりが彼にこう言う。

地位も名誉も才能も知恵も愛すら無いひえもんとりちゃんはわずかに持っている小金を払ってきらりへの愛を証明するしかないにぃ

さあ もっと課金すぅ

愛のないきらりへ、金銭をつぎこむことによって愛を証明する。愛。恐ろしい言葉だ。愛なしにキャラクターはその姿を保つことができない。だが、愛はお金で手に入るのだ。いや、より正確に言うのなら、存在していなかった愛が金銭を呼び、呼び込まれた金銭が存在することのできなかった愛を存在の側へともたらすのだ。

そして、ついに彼は転向が完遂したことの告白を成す。

http://www.pixiv.net/member_illust.php?mode=medium&illust_id=32517573

突発的に思いついたネタでPixivにUPしたらなんか同人誌出してた

どうしたんでしょうね。

あんなに嫌いだった「キャラクターを描く」ことも最近は慣て来ました。

彼の言葉にどこまでも注目しよう。あんなに嫌いだった「キャラクターを描く」こと。そのような言葉を使うことができるという事実。彼の言葉はまったくすぐさま理解ができる。納得する。そういう事実の存在することを深く理解する。

けれど、同時に、「キャラクターを描くことが嫌い」を理解することは絶対に不可能なのだ。なぜなら、そこには理由がない。「キャラクターを描くことが嫌い」と述べることができるための理由が、この世界に存在していない。

私がモバマスを語ることができないのも、おそらくはここに起因する。

けっきょくのところ、私はキャラクターが嫌いだと力強く宣言したいのだ。それは私はキャラクターが好きだと力強く宣言したいということでもある。両者はまったく同じ意味だ。

けれど、キャラクターが嫌いだと宣言することのできる、その理由がどこにも見つからない。そんな思考が許されない。目の前の豊かな世界を必死で見回す。首を動かし、肩をずらし、首を動かす。だが、どこにも豊かなキャラクターを排斥する理由は転がっていない。

彼の言葉はいまだ大いなる謎として残っている。少なくとも私には完全に理解できるのに、まったくもって理解することができない。彼の言葉の理路がもし掴めるのなら、きっと、モバマスを語ることができようし、あるいは少なくとも語ることのできない理由を胸を張って誇ることができるだろう。それまではただ、iPhoneの画面を押し付けることしかできない。

この饒舌な沈黙を解消しなくてはならない。おそらく。