「キャラクターのロジック(論理)」という問いの形式で小説におけるキャラクター構築のことを考えてきたのだが、ここのところ論理という言葉は語弊があるなぁと気付きつつある。

論理という語は強すぎる。ロジックと言ってしまえば、三段論法てき演繹のように、まるでそこには一群のはっきりとしたルールがあるように見えてしまうし、実際、キャラクターの振る舞いの多様性を決定するためのルールがどこかにあるものとして私は考えてきて、その魅力的なルールをどうつくるべきか、これまで思いなしてきた。

だが、キャラクターの核にあるものはルールではない。

むしろルールはキャラクターの外部、作品世界という名の環境に存在するものだ。ルールないし「法」という言葉は、(それが自然であれ人間であれ)複数のなにものかを統合的にひとつの相にあると観測することを可能にするメカニズムだ。そうであるならば、エンターテインメント小説(≒私が書くことを希求するライトノベル)がふたり以上のキャラクターのやり取りによって成立するフィクションであるため、ルールは各々のキャラクター個人には属さない。ひとりのキャラだけに付帯する規則は、通約可能性をもたないがゆえに、小説の魅力に貢献しない。単一のキャラに特権的な主体を下賜するある種の純文学や、ひとりのキャラを特権化するタイプの二次創作のようなフィクションは別かもしれないが。

では、キャラクターには何があるのか。

もっともっとゆるやかであいまいな何かなのだろう。ミラン・クンデラ『存在の耐えられない軽さ』の一節にあけすけな表明がある。(私はこの節から気付いた)

小説の人物というものは生きた人間のように母親の身体から生まれるのではなく、ある状況、文、メタファーから生まれるもので、その中にまるでクルミの殻の中のようにある種の基本的な人間の可能性が収められている。その可能性というのは、まだ誰も可能性を見出していないとか、それについて誰もまだ何も本質的なことをいっていないと著者が考えていることなのである。(p280)

存在の耐えられない軽さ (集英社文庫)

存在の耐えられない軽さ (集英社文庫)

そう、ルールでもロジックでもなく、もっと単純なひとつのなにかだ。それが、たとえば状況であったりたとえば文であったりたとえばメタファーであるのだ。

その単純ななにかを、ルールが整備された環境=作品世界にそって、展開させること。その結果がキャラクターとなるのだろう。決して要素の組合せではない。ひとつのシンプルな核から展開演算をみちづけるものが作品世界にあまねく共通するルールなのだろう。

そのため、考えるべきは世界論理、ということになるだろう。

それもまた非常に困難なことでもある。