足が完全に冷たくなって死体のように固まる、それくらいに寒い夜。

 

シンデレラガールズのことを考えている。彼女たちの徹底した自己実現性。

8話の蘭子のエピソードが最も顕著とはいえ、多かれ少なかれあらゆる彼女たちに共通するのは極限までに自己実現となったアイドル性だ。すべてのアイドルであることが既に始原から彼女たちに内在している。だから、そこにあるのはコミュニケーションの絶無の中で、きらきらと輝く自己実現の基体の集まりであって、力強さだけが私たちへの印象となって彼女たちの運動の軌跡を追うことしかできない。

頭から離れないのは、かつてのアイドルマスターの彼女たちのことだ。彼女たちにとってアイドルとは内在性では決してなかった。その過酷なゲームデザインが彼女たちにアイドルでいられなかったという結末を迫りつづけていた以上、アイドルが彼女たちに内在した自己実現性ではありえなかった。むしろ端的に言って、プロデューサーによってもたらされた外在性であったし、最も純粋にシンデレラストーリーであった。アイドルとは偶然性であったし、バフチンの言うような、関係性の間に生起する出来事としてのイデーに他ならなかった。その限界までアイドルを引き受けたのが天海春香だった。プロデューサーに留まらないほとんどすべての関係においてアイドルというイデーを発生させていた彼女のことを、考えてしまう。

どちらのほうがよいとかそういうことはわからないのだけれど、ただ、明らかに異なるふたつの類型のどちらかの引力の間で、問いを立てるようにキャラクターの実存を生きていたいと希望しているだけだ。