うーん、『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている』を読むということが、八幡という主人公を特権的に読み込むことである、ということからは脱しないといけないのは、たぶん、まちがいない。

もちろん、八幡を特権視することが最も「正当な」読解であることは否定しない、否定しようがない(なにせ公式の略称が『俺ガイル』!)。作品は巻を重ねるごとに『俺ガイル』という略称へと同一化しようとし続けている。けれど、7巻が盛大な失敗だったという立場に己を置く限りは、その正当をずらさなくてはならない。八幡=俺をどこまでも特権視するのではなく、このシリーズがライトノベル=キャラクター小説であることを守るためには、そうでなくては。

一人称小説というのは、原理的には小説のすべての要素を主人公に帰することができるけれど、それじゃあ、ねえ。もうちょっと素朴にポリフォニーとかを信じたいものだ。