『ホワイト・ゴッド』を観にいった。終盤までは非常によかった。特に犬たちのシーンはどれも素晴らしかった。人間の歩行とは根本的に足の動かし方が異なる四肢の駆動のリズムが絶えず画面をきちっと支えていて、純粋に感動した。

けれど、最後に犬たちが保健所から一斉に逃げ出して街へと繰り出して以降はちょっとひどい。災害としての犬たちの蹂躙という製作者たちのイデア技法としては洪水の様式としてのスローモーションと、ホラー映画の文法としてそれは実現される)が、完全にそれまでの犬たちの素晴らしさを殺してしまっている。主人公の犬が捨てられて、人間に捕まるまでの間のシーンはあんなにも神がかっていたのに。

そして人間たちのドラマはよくわからない。主人公の少女は(もうひとりの主人公である雑種犬とともに)明らかに大人たち(基本的にはほぼ男。例外的に女性である唯一の交換主体としての彼女の母は新しい若い夫とオーストラリアに行くことで彼女を中年の元夫に預ける)によって交換される対象であって、しかもそれが性的な欲望であることがあからさまに提示される。父による近親相姦=親子の愛情の欲望の対象として(結局最後まで近親相姦と親子の愛情の間に違いはないものとされつづける)。

そうした欲望の交換対象であることに当初は彼女は反発し続けるし、父親とのコンフリクトが絶えず起こっていて、ああこれは客体から主体へとかで話をつくっていくのかな、と思っていたのが、家出してクラブで夜を明かして警察に保護されたあとはすんなりと父親と和解し、それはつまり近親相姦を受容するということで(それまで父が背を向けて直視していなかったタンクトップとショートパンツ姿の彼女が父の隣に座って親密に会話したり、父が彼女の着替えを手伝う=靴を履かせてやるというシーンで露骨に表される)、ええーそうなるの?と驚愕してしまった。しかも、タバコは思いを寄せる若い男に止められ、クラブで渡されたドラッグも結局使用せずに彼女は父と和解していて、それはもうひとりの主人公である犬が闘犬家の男に引き渡され、薬物も含めた肉体改造によって狂犬にさせられてしまうのと著しく対照的なのだ。

狂犬となった主人公は犬たちを率いて街を蹂躙するのだが、彼は自分を傷つけようとした肉屋や闘犬家を殺しはしても、少女の男たち(彼女の通う音楽学校の教師とそして何より父親)はひとりも殺すことはできない。

最後のシーンで犬たちは彼女と父に狂暴に対峙するのだが、最終的には少女のトランペットの音によって恭順してしまい、それでエンドである。少女が音楽学校に通い、才能があると深夜まで教師と一対一のレッスンをしているように、何度も学校を逃げ出す少女に対して学校に行かせることに父親が執着するように、トランペットはまさに彼女が欲望されているものそのものであるのだが、その男たちの欲望の音によって狂犬たちは宥められ従順となる。ふつうに意味がわからない。なんでそんな社会の勝利みたいなエンドにしているのか。うーん。近親相姦と社会の勝利という結果のほうが、今の抑圧的なハンガリーっぽいといえばそうなのかもしれないが、しかしもうちょっと何かエクスキューズがないと、気持ち悪さがどこへもいかずに脱力感にしかならないような。

そんな感じでした。