イスラーム映画祭というのを12月にやるらしく、気になっている。

レヴィストロースを読んでたりしていると(『仮面の道』を読んでいる)、構造分析の狂気にとらわれて、落第騎士なんかを構造分析しようとしてしまう。主人公とヒロイン2人の三項構造の不安定さを調停するための有栖院の導入によって、強固に安定した四項構造になってるとか、近親相姦の禁止と適切な距離の者との婚姻とか。

まったくまったく益体もない。だいたい構造分析とかは絶対に失敗しないから廃れたのであって、しかし読むとついついそういう思考の誘惑に駆られてしまう。それくらいには面白い。

風景画の誕生展を観にいった。割とそんなに人はおらず、快適。

宗教画の背景から徐々に独立していって、とうとう人間のいない純粋な風景画が誕生するというプロセスで展示していて、なかなか素晴らしかった。風景画の技術的なあるいは題材的な豊かさというのは近代人の我々からすると明らかであって、絵を見るという快楽からすると風景がどんどんと肥大化していくのはほとんど自明のように、見える。カメラオブスキュラで描いた絵なんかはもう、あまりにもわかりすぎる。

だからむしろ宗教画のほうがよく考えるとむしろインパクトがある。聖母子像とか東方三博士とか聖ヨハネとかの主題の背景の風景が、解説によれば当時の最新式の船引き上げ装置だったり、当時のオランダの都市だったりで、その時空間の完全な無視というのは見れば見るほどヤバイ。ジャガイモ警察を素手で殴るような強さがある。オークと姫騎士の背後にスカイツリーがあってなおかつ純粋な中世ファンタジーがあってもいいのだけれど、そんなことがありえないのはやはり我々が近代人を捨てきれないのだとひしひしと思い起こさせる。知識だけが民衆の武器なのだ。

あと。このコレクションの持ち主だったハプスブルク家のヴィルヘルム大公がどのように絵を飾っていたかの図版があって、壁一面に一部の隙間もなくびっしりと絵画を並べていてその頭の悪さが最高に貴族って感じだ、という感じであった。

スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ『死に魅入られた人びと』を読む。

こういう本が読めるというだけで、自分の心にソ連を持っていてよかったと思う。あらゆるページを引用したいぐらいで。

たとえば、自殺した党官僚を語る同僚の話なんかはいかにもソ連の党官僚であって、そこにはたとえシニシズムに縁どられた無関心であっても「思想」があって、個別の事象なんかではなくて常に世界の救済という観点から物事を話すあのロシア的レトリックが、ああソ連だという感じで感動する。

そういう話が出たかと思えば、自分の母が呪術で若さを保っていた過去の思い出を滔々と語る女性が出てきて、こういう土着的(PC?)感じもロシア感である。なんかロシアロシアばっかり言っててあたまおかしいひとみたいだな。

一番すさまじかったのは最終章の女性。大テロルの頃に生まれて、母親が入れられた収容所付属の児童収容施設に入れられて育った女性の話。ソ連という歴史的存在だけが生み出すことのできた詩情というのがそこにはある。

時間の堆積がおのれのからだをどんどん重くしていって、感傷というモラルが自身の精神を殺してしまいそうになっているのだ。センチメンタリズムに自由が抑圧されている、そんな感覚が何か月もつきまとっている。

こないだ国会のデモを観に行ったので思ったこと。

・いつのまにかサイリウムが導入されていた。脱原発のときにはなかったから最近始まったのではないか。夜までやるときは結構悪くない感じ。団塊世代のおじいちゃんおばあちゃんがサイリウムを振っている光景は新しい。

・国会裏手のほうで、メイングループから排斥された新左翼セクトの皆様方が黙って集団で座り込んでいて、ご愁傷様ですという感じ。

・コールは言われていることだけど、まだまだ高度な感じ。最後どんどんテンポあげて高速になっていくのは初めて聞いた。

・学校で難しい問題を訊いたら正解する生徒が少数なんてよくある、だから国会で多数決で法案を決めるのはよくないみたいな演説をしていた人がいたが、そういう専門性のレトリックは明らかに社会運動としての自身の首を絞めるレトリックなので、代理表象の問題に限定するべきじゃないかな、いいのかなと思ったが、まあ、そういうことを言っていたのはひとりだけだったので大過でもない。

ひとと話すなど。

重力の虹を読んでいる。読んでいて文章の快楽はすさまじいが、はなしはさっぱりわからない。第2部になったら話がわかると訳者の佐藤良明が言っていたが、第2部になったら確かにはなしはわかるが、逆に文章に精彩がなくなって、読むのが詰まっている。