小説を読むこともできずに、文化の断片をかろうじてなめているだけだ。

エド・ウッド』をずっとウディ・アレンの映画だと思いこんでいて、近くのレンタルビデオ店の監督別コーナーのウディ・アレンの棚で、タイトル50音順に並んでいるDVDの、あの『ウディ・アレンの~』といくつかある作品の横にあるはずだと何度確かめてもなくて、ひどく不思議に思っていたのだけれど、こないだビデオ店にいる間にウィキで調べたらティム・バートン監督だった。脳内のカテゴリー枠がかなりゆるゆるに作られすぎである。

『無防備都市』を見た。

ネオレアリズモの傑作だとか云々。終盤が素晴らしい。主人公たちレジスタンスがナチスに捕まって、尋問、拷問(死)、処刑と続くのだけれど、かなり丁寧にカットを繋いでいるのに、ほとんど特定の意味を強調することなく、逮捕から処刑への一連の手続きがたどたどしく続いていく人間の行為が、ああリアリズムという感じ。いや、もちろん司祭の演説のヒューマニズムだとかナチスの自己反省的語りなどもあるのだけれども、連続する画面の強さに圧倒的に負けている。ISの処刑が何度も何度もフィクションの処刑を撮影してそれを平然とネットに公開することと実に対照的で、ああ、20世紀には間違いなくリアリズムと呼ぶ何かへの理想があったのだと、感慨する。

ウルフ・オブ・ウォールストリート』。

あまり出来のよろしくない雑な映画だとは思う。脚本も雑だし、映像も雑だし、キャラも雑だ。でも、嫌いじゃない。こういう雑さは称揚するべき雑さですらなく、端的にダメであるのは間違いないのだけれど、嫌いになれない。いや、ほんとにダメなんだけど。

お酒を二日連続で飲んで身体が毛羽立ってさざなんでいるみたい。近頃はなぜだか体の不調への感度があがっていて、熱が出たりする直前に体の浮遊感やぞわぞわとした皮膚の感覚が降りてきて、以前はそんなことはなかった。しかも、その感覚がいつも外を歩いているときにやってくるものだから、まるで天啓みたいで。空から兆しが降ってくるみたいで。

 

ラノべを読もうという強い決意で書店におもむき、平積みで一冊だけ残っていたラノべ(実力主義なんちゃら)を買って読んだのだが、あまりの酷さに予想以上のダメージを受けた。クソラノベならまだ救いがあったのだが、それはラノべですらなく、恐るべきことにクソエロゲーであったのだ。衝撃を受けてしまった。まるでライトノベルには肌色のCGもあるし声もついているし背景もあるしメッセージウィンドウもあるしスキップ機能もあるしあまつさえマウスのクリックまであるようなつもりで書かれている、そんな作品だった。ちょっと予想していなかったので、かなりへこんだ。

てさプルを見た。声優の統治という問題系は、まあともかく。(そんなものはフーコーにでもアウトソーシングしてればよろしい)

すみぺのことだ。否応なしに問題系がおのれを捕らえて離さない。それは実存の系としてであって、たとえば洲崎西への聴覚とは根本的に異なる。インターネットというかつてのサブカルと呼ばれうるもののレポジトリーであったテクノロジーによる駆動という点での同一性をまざまざと見せつけられながらも、中野やあるいは原宿といった物理的固有名による物理から構成されるもうひとつのサブカルに対する非同をひしひしと痛感させられる。こういう概念でしか私が意識を働かせることができない、そういった空間に人格がいる。

だから、他の声優と相対したときのコミュニケイションの絶えざるつまづきとなめらかさに不可避に感情がみだされるのだけれども、てさプルではそれが一層激しくなって、もはや嫉妬なのか諦念なのか世界への態度表明なのかまったく自身でもわからない。おそらく少なくとも明らかなのは、おのれにとってより実存であるようなすみぺという全き不当で邪悪な理念型から世界を眺めていることだ。たとえば、院進してロシア文学をやっているようなそれだとか(かつてラジオでベリャーエフの話をしていたことを思い出している(と思ったが調べてみたらソ連映画版の方の話をしていただけのようだ))。

…いや、うまく言葉にできない。

ここでなんとか言語としようとしているのは、6話を見ていて、鈴木結愛(西明日香)の「わたし、友美ちゃん大好きなんだけど」のセリフになぜか異常に心を乱されてしまった経験を意味化したかったというだけのことだ。

やはり、たんに嫉妬なのだろうか。

わからない。

原因不明の体調不良。汗がだらだらと流れて、くしゃみと鼻水が止まらない。

 

ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』を読み終える。なんだかんだと忙しくてひと月ほどかかってしまった。

よい。かなりよい。意識を書くということはこれくらいに抑制的でなくてはならないのだ。意識というもともと私たちが持っていないものを文字に連ねれば、すぐさま過剰性に落ち込んでしまって(端的に自分がジョイスを読めないということなのだけれど)、だからキャラクターたちには強靭な理性が要求される。彼女ら彼らが考えるのは、他者の人格と「人生」という極限までに抽象化された概念であって、事象のことがらからすぐさま人生がすべりこむ。他者の人格とここで言っているのは、普遍的な人格のことで、この小説のキャラクターたちは他者という固有名をあらゆる時間の経過を超越した人格としてのみ理解しようとする。キャラたちが自身に許すのはそうした抽象概念だけであって、それ以外の日常的な中間理論はまったく姿を現さない(もちろん例外としての第二部があって、それはあきらかに世界をこうした限定された意識の外部へと拡張していて、個人的には一番好きな箇所ではある)。この抑制が非常によかった。

足が完全に冷たくなって死体のように固まる、それくらいに寒い夜。

 

シンデレラガールズのことを考えている。彼女たちの徹底した自己実現性。

8話の蘭子のエピソードが最も顕著とはいえ、多かれ少なかれあらゆる彼女たちに共通するのは極限までに自己実現となったアイドル性だ。すべてのアイドルであることが既に始原から彼女たちに内在している。だから、そこにあるのはコミュニケーションの絶無の中で、きらきらと輝く自己実現の基体の集まりであって、力強さだけが私たちへの印象となって彼女たちの運動の軌跡を追うことしかできない。

頭から離れないのは、かつてのアイドルマスターの彼女たちのことだ。彼女たちにとってアイドルとは内在性では決してなかった。その過酷なゲームデザインが彼女たちにアイドルでいられなかったという結末を迫りつづけていた以上、アイドルが彼女たちに内在した自己実現性ではありえなかった。むしろ端的に言って、プロデューサーによってもたらされた外在性であったし、最も純粋にシンデレラストーリーであった。アイドルとは偶然性であったし、バフチンの言うような、関係性の間に生起する出来事としてのイデーに他ならなかった。その限界までアイドルを引き受けたのが天海春香だった。プロデューサーに留まらないほとんどすべての関係においてアイドルというイデーを発生させていた彼女のことを、考えてしまう。

どちらのほうがよいとかそういうことはわからないのだけれど、ただ、明らかに異なるふたつの類型のどちらかの引力の間で、問いを立てるようにキャラクターの実存を生きていたいと希望しているだけだ。

書く、という試みをなんとかこの手に取り戻さなくてはいけない。

なんとか再開したいと思っています。

 

『終末なにしてますか? 忙しいですか? 救ってもらっていいですか?』を読む。

よくできている。「よくできている」という感覚こそが、より一層の絶望をもたらしてしまう。それはコンテクストの地獄でもある。
洗練されている。洗練されているのだ。作者と編集者の二人三脚によって目指される、洗練という中心への志向の軌跡がひとつの形を結ぶとき、そこに現出したのはいわば純粋な設定厨とでもいうべきこの作品である。
純粋な設定厨とは、通常考えられているような設定厨とはまったく異なる作品である。私たちが設定厨とみなす作品というのは人間にとっての設定厨である。無限に緻密に展開されていくアラベスクのように、設定厨には人間の生きるというひとつの私たちにとっての真理が細部にまで満ち満ちている。なろうの作品群には、人間の為という意味においてまったくシンプルな設定厨をいくつもみることができる。
しかし、『終末…』は違う。
ここにあるのは作品が作品であるための設定厨であって、この作品がライトノベルという世界において代替不可能な唯一のなにかであることのための設定厨だ。この純粋な設定厨は、この作品の世界設定をそのまま自身にも適用しているかのようだ。人間がいなくなった後でも自動的に書き続けられ出版され続け読まれ続けるライトノベル。そのひとつの純粋な形式を私たちは目にしている。