『大いなる沈黙へ』

『大いなる沈黙へ』を観に行った。

フランスにあるグランド・シャトルーズという修道院のドキュメンタリーである。かなり厳格な修道院らしく、外部のひとは立ち入り禁止、週に4時間の散歩以外は沈黙、取材を願い出たら「まだ早い」と許可が出るまで16年かかったなどと、期待を盛り上げる情報が私たちには与えられる。

それで、映画。

3時間の長さと、内容から、めちゃくちゃ眠くなるやもしれぬと思っていた。最初は猛烈な眠気に襲われて、ああこれは1.5タルコフスキーくらいだなと感じていたのだが、途中からなんとなしに感覚が掴めてきて眠気はややおさまり、結局0.8タルコフスキーくらいであった。

感想。

意外と、うるさい。

それは音楽や効果音のうるささとはもちろん別だ(そういうのがないというのもこの作品の売りなのだ)。画面がうるさいのである。謎のサブカルさというべきか、加工した映像を随所に挟んだりと、ひねた編集をやっている。

こうした編集には一貫した意図がみえる。ひとつの構図をつくろうという意図。

沈黙はナチュラルなものではない、という主張だ。一連の編集は、規律正しい沈黙の修道院と豊かな喧噪に満ちた自然という対比のためになされている。修道院という建築物のもたらす静寂とそれに付き従うような修道士たち。対して水や樹々や空といったもろもろはその豊かさを画面に見せつける。そのあまりの豊かさを減ずるために、画面は突然レトロスペクティブな色彩へと加工される。

大いなる沈黙への格闘が全編を覆い尽くしている。

3世紀に彼らの始祖が身を置き神に祈りを捧げた荒野をこのヨーロッパに再現する。けっきょくのところ、修道院と沈黙とはそうした荒野の試みに他ならないのだが、それは自然に四方を包囲されたほとんど絶望的な試みとして私たちに繰り広げられる。自然とは水や樹々や空だけでなく、聖句を謡う彼らの声に交じる咳、あるいは私たち観客の咳、衣擦れ、鼾。それらに包囲された沈黙は頼りなさげにみえる。

しかし、当然この構図はこの作品の構図であって、彼ら修道士たちの構図ではない。修道士たちの無邪気の雪滑りの場面(これを遠距離から俯瞰して撮影する製作者のいやらしさ!)や盲目の老修道士が語る場面からも、彼らは自分たちに幸福を祝福しているのだ。自然という問題系は彼らのものではなく、作品の、そしてそれを視る世俗=自然の私たちにある。

そんな感じで意外に対立の構図が楽しめたのでした。