『言の葉の庭』

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最初の短編はコメントに価しない感じがある。もともと野村不動産のプロパガンダムービーらしいのでしかたない。おおかみこどもの時も思ったが、親子関係を親密に描くのに母か父かのどちらかを欠落させないといけないのというのは、単なる技術的な理由であってほしいものだ。親子関係を前景化させるために無理に夫婦関係を出さない程度の理由でね。親子関係と夫婦関係の対立とかそんなレヴィストロースの親族の基本構造みたいな対立とかニホンイデオロギーの背後にあるとかそーゆーのはあってほしくないのです。

それで、言の葉の庭。

描写はもちろんよい。星を追う子どもは観ていないのでなんとも言えないが、映像は素晴らしい。水面に雨滴のこぼれて広がる様はそれだけでインパクトがあってスクリーンの暗闇が明るくなった最初のシーンでがつんと殴られた感じ。こまやかな描写のところどころにも結構いいところがあって、ユキノがふいにファンデーションのケースを落としてしまってぼろぼろに砕けてしまったファンデーションを見てふっと泣き崩れてしまう描写や、DQNを殴って一瞬の静寂や取り巻きの女の子の「え?なになに?」と間の抜けた声なんかすごくいい。

物語。

確かに新海誠が物語がうまい作家だということはなかったのだが、輪をかけてわるくなっている印象。だが、この言葉は必ずしも悪罵というわけでもない。物語がぐずぐずになっている(つまり、ほしのこえ秒速5センチメートルのように単に別れたりするのでなく擬似的に結ばれるクライマックスがあるということだ)のだが、そのぶん、キャラクターの関係性がより高解像度になっていて、そこではディスコミュニケーションが露わになっている。

タカオが最初から最後まで力を持ち、極端に言ってしまえばユキノがそれに引きずられ、追い込まれ、みずからの自発性を下賜される、そのような関係性。そもそもで言えばこれは欲望することと欲望されることの非対称性から必然的に生じるものではあるのだが、大抵は欲望されることをずらすことで対応するのを、ユキノの状況は彼女にそれを赦さない(俗悪に言えば、メンヘラだからということだ)。足をとっかかりにして最初に相手をまなざすのは彼であり、雨の日だけここに来るというルールを把持しているのも彼であり、梅雨が明けて足を運ばなくなるのも彼であり、「先生」と最初に呼んで関係性の固定と離別を招くのも彼であり、雷の瞬間に彼へと延ばされた彼女の手を握らないのも彼であり、にもかかわらず「好きだ」と行為遂行性を剥ぎ落とされた無意味な言葉を言い放つのも彼であり、飛び出した彼を追いかけさせ彼同様の無意味な事実確認的告白を彼女にさせるのも、彼なのだ。

彼がまなざして欲望することで作品世界は巻き込まれるが、彼は彼女への欲望をおのれの人生へ、子供‐大人へと回収していく。そうやって切り落とされた欲望の断面は誘惑へと変わる。円い断面の誘惑が彼女をつよくつよく誘う。だがその誘惑はあらゆる意味行為が禁止された、彼女を呼び寄せるだけのからっぽの誘惑だ。だから、彼女は雨の中抱きしめることしかできない。雨、三人目のキャラクターのヘゲモニー

言葉はまるで彼と彼女を分断するためだけに存在しているかのようだ。あるいは、映像で隣合う両者を引き離すのは非映像的な言葉しかありえないということなのかもしれない(いや、では、ほしのこえは? 秒速5センチメートルは?)。けれど、それを除いても、彼と彼女の言葉はどこまでもちぐはぐだ。問題が露わになる前の最初の会話でさえたどたどしい。あるいはクライマックスの寸前。Aが「幸せ」と言い、Bが「幸せ」と言い、それが同時に発せられたとしても、ふたりが「幸せ」と言ったことを決して意味しない。タカオとユキノの「幸せ」という言葉にはどこまでも一つの声になることのない違和がそなわる。『ほしのこえ』の「ここにいるよ。」との決定的な差異。それを誰かが新海誠の成長と呼ぶのかもしれない(まあ、そんな言葉は無論唾棄せねばならない収容所案件ではある)。

結局のところ、どこまでも肥大していく映像の美しさ、自然描写の無限に蓄積されていく技巧的精緻がこの事態を生んでいる。ここで言う自然は雨や樹や葉だけでなくビルや電柱や「夜中のコンビニの安心する感じ」や「夕立のあとのアスファルトの匂い」も含んだ自然のことであるが、この自然が物語やキャラクターのすべてを呑み込んでいき、力強くその姿をスクリーンへと叩きつける。もはや情緒をそこに読み取ることも困難な、強靭に美しい自然へとなっていく。

抒情なき自然の勝利。「言の葉の」庭ではなく、ここにはただひたすら美しい庭だけがある。