文体のことを考えつめるべきかキャラクターを思いつめるべきか世界のシステムを考えつめるべきか。

 

文体という言葉を口にする時それはまったくセンスと同義であって、しかし、センスの基盤がわからぬ。論理やら明瞭さやらを信仰しすぎた報いなのだ。ロジックへの信仰がある。スターリンゴチック様式の前に立つ卑弱なニュー・ソヴィエト・マン。恐怖のあまり敬礼の掌を額に押し付け、がくがくとふるえながら信仰告白を欠かさない。

キャラクターはもとより信仰ができていない。近代主義とイスラーム主義に憧れる内面は偶像崇拝という邪まな感覚をニューロンに流通させる。そして成すべき人類事業は小説である。キャラクター小説はいきも絶え絶え、彼女の固有名へと読者の視線をすりかえる、そのための最初の鳴り物が見当たらぬ。あるいはヴィジュアルの輪郭がはっきりと幽玄であることが示せたのならあるいは。

システムという考えうる限りなかなかさいてーの部類に入りそうな悪手へと思考が移りつつある。まったいらな平坦をごろごろごろごろ転向しつづけて、次の主義へ飛びつく最新がなろうのネット小説ということだ。奴隷ハーレムをふたたび読み始めて、MPが精神を意味していて、魔法を使うとメンヘラに、モンスターをブチ殺して精神が健全になるというのに感心する。ほんとうに人間機械論である。はやく奴隷を買受けるところまで読み進めよう。そこにいったいなにが書かれてるのか。同時にきっとロビンソンクルーソーも読むべきだろう。クッツェーの『敵あるいはフォー』とかそういうロビンソンクルーソーをもとにした奴は読んでいるのにもとのを読んでいないのはよくない。

 

「でも、そんなことよりも、また、おはなしをしなくちゃいけないね」とささやく脳内こびと。