『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。6』

『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。6』を読んだ。

端的に言うと、感動した。

 

やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。6 (ガガガ文庫)

やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。6 (ガガガ文庫)

 

まだ、まだ、諦めていなかったのだ。社会のリアリズムによってライトノベルを書こうとする挑戦を、『はまち』は未だに棄て去ってはいなかったのだ。

それは既に破綻してしまったリアリズムだった。4巻において、『はまち』が望んだリアリズムによるライトノベルはほとんど失敗と言うべき結果を露わにしてしまった。林間学校での「ぼっち」の小学生、鶴見留美をめぐる一連の行為は、『はまち』のリアリズムが実際にはあまりにも操作的なものであることが露呈してしまった。その結果、続く5巻においてリアリズムへの志向は後退し、キャラクター間の関係性についての迂遠なやり取り=メタラブコメを展開した。夏休み、という期間もまた、リアリズムを走らせる基盤である学校を描く猶予にもなった。

そして6巻。

渡航は、そして『はまち』は諦めていなかった。なによりもそのことに感動してしまう。

既に盛大に破綻してしまったリアリズム。そのリアリズムを再構築することへの強靭な意志が全編にわたって満ち満ちている。世界=社会と呼ぶことの出来る何かの中にキャラクターを位置づけたいという切実な欲望が『はまち』を衝き動かしている。

このリアリズムとは何か。

スクールカースト」という概念である。ライトノベルという空間に「社会」を導入するために、『はまち』はスクールカーストという概念を選び択った。それが1巻における高らかな宣言であった。リアリズムへの信仰告白であった。

だが、スクールカーストは無惨にも虚構性が暴かれてしまった。けれども、「社会」というリアリズムを放棄するわけにはいかない、まったくもってそんなことは許されていないのだ。

そのために『はまち』6巻はスクールカーストという「社会」を掴み取るための言葉を再構成してみせる。プロセスの緻密な記述の積み重ねでスクールカーストを復興させようとする企み。それは見事に成功した。渡航はやってのけたのだ。

成功の最大の理由は今回、『はまち』の作品世界に文化祭、それに伴うクラス企画・実行委員会という労働を導入したことだ。

スクールカーストという概念のポイントはそのヒエラルキー性にある。確かに、クラスという一定数の人々が空間的に固定される状況において、人々が複数のグループに緩く(厳しく)分かれるという事態そのものはほぼ普遍的なことだろう。しかし、スクール「カースト」の重要な点はそうした複数のグループに階級的に序列がつけられるということだ。まさしくそこがスクールカーストの虚構性たるゆえんでもある。クラスのグループ間に序列を成すための基準が基本的には存在しないからだ。現代日本の教育制度が原理的に個人が学習することを基礎に置いている以上当然のことでもある。物理的な根拠が不確定な限り、スクールカーストは妄想と切り捨てられる範囲の外へと出ることができない。

『はまち』はそこに労働を投げ込んだ。文化祭という労働。クラス企画で一体何を行うのか。実行委員会の役職はどうなって、仕事はどうやるのか。そうした個々の決定と実行の配分で、スクールカーストは存在的な根拠が与えられた。キャラクター達が分割され、駆動され、意味を与えられるものとして、スクールカーストは力強く甦ったのだ。葉山や三浦のグループはクラス企画の中心として活躍し、2番目のグループに所属する新キャラクター相模南は代償的に文化祭実行委員長に名乗り出る。文化祭実行委員会へと場所を移動させられた比企谷八幡と雪ノ下雪乃はそのしわ寄せを食らう。社会の中のキャラクター。その目論見は再び成功したのだ。

だが、同時に、このような偏執狂じみた「社会」への固執は何故なのか、という問いも忘れてはならない。それはひたすらにキャラクターのためであるのだから。スクールカーストを諦めないことはこれがキャラクターの小説であるためにどうしても必要なことなのだから。――比企谷八幡という語り手たるキャラクターのために。

6巻に至るまで綿々と書き続けられてきたこの小説は、その過程における選択の結果、解決されるべき問題を語り手のキャラクターである八幡に収束させることを決めた。八幡に最大の問題があるのだ、と小説の進むべき路を選んだのだ。この小説のタイトル。『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている My youth romantic comedy is wrong as I expected.』。誰が青春ラブコメを「まちがえている」のか、それが6巻では露骨に読者の眼前で示される。雪ノ下雪乃の問題系のあまりにもあっさりした解決や、p315のまるで『俺妹』の京介のような唐突の台詞と川崎沙希の反応はもうあからさま過ぎるほどだ。

語り手の歪み。その歪みに根拠を与えるために「社会」の構造はなんとしてでも維持されなければならない。八幡が歪んでいることを保障するために、「ぼっち」という説明体系が必要とされる。ぼっちという説明体系を、『はがない』のように属人的な理由から論証するのではなく、『はまち』は社会の構造から論証することを選んだ。ライトノベルのリアリズムのまさしく理想である。リアリズムによってキャラクターを「強く」する。スクールカーストはぼっちのために整備されるのであった。

僕は友達が少ない (MF文庫J)

僕は友達が少ない (MF文庫J)

けれども思い出そう、6巻ではスクールカーストがそのまま維持されたのではなかった。スクールカーストは新たな存在的根拠を持つよう再構築されたのだった。ということはつまり、比企谷八幡の歪みの根拠もまた変容を被っていることを意味している。

「ぼっち」から「スケープゴート」への変質がそれだ。虚構の「社会」の中で単なる無存在という意味での「ぼっち」でいることはもはや叶わなかった。再構成されたスクールカーストという構造に対して、意図的に供儀されること、そうして意識的にカーストからはじかれることで「ぼっち」でいようとすること。一連の行為に伴って、八幡というキャラクターには「優しい」という形容がしきりになされるようになる。やさしいんだ。やさしいのだから。しかし、もはやそれは「ぼっち」ではなく、紛うことなき「スケープゴート」である。八幡の変容を眼にする我々読者の口に、苦みを覚えることは否定できない。

けれども、『はまち』は成功させたのだ。たとえそれがどんな影響をこれから与えようとも、己の目的を6巻の時点で成功させたのだ。

何度でも繰り返そう。私は感動したのだ。してしまったのだ。

見事に成功したのだ。