生活主義というのがどれぐらい有用に今のフィクションを読めるのか、考えている。

そうしなくてはいけない気がする。

これは生活でキャラクターを読むという試みだ。キャラクターに存在するロジックの質を問うという仕方でキャラクターを読むこともなく、かといって表層的な振る舞いの批評をしない。小説を読むことをフィクション受容の第一義に置いている自分が、それでもキャラクターを残して「読む」ことを続けるための方法のひとつだ。ツンデレや妹などの属性というキャラクターを走る論理のいかんを問う試みは今のところほとんど有効ではない。属性という解釈子によるキャラクター小説は『俺の彼女と幼なじみが修羅場すぎる』が端的に例を示しているように、もはや極限まで走ってしまった。かといってキャラクターの「声」「顔」「振る舞い」といった表層的な振る舞いを見ることは、小説では叶わない。徹底的に文字は論理だからだ。小説をキャラクターで読むことをやめたくないのならば別の方策を考えなくてはならない。

生活主義はそのための苦肉の第三の道だ。可能かどうか今はまだ、まったくわからない。

今のところは漠然たる予言だけだ。

  • 生活主義はきっとマルクス主義の屑のような劣化コピーを意味することだろう。
  • 生活主義はキャラクターのパーソナリティではなく、そのキャラクターを作品内の環境的な配置によって全てを説明することを欲望するだろう。
  • 生活主義は狂ったようにありとあらゆるロマン主義を、己以外のロマン主義を排するだろう。つまるところあらゆる浪漫的神秘主義を否定するという信仰以外を全力で否定するだろう。
  • 生活主義はしかし愛や感動を拒否することはないだろう。それが生活という物理的基盤のもとでまさしく正当に愛であることを認めて愛するだろう。
  • 生活主義はあらゆる先見と倫理を排除してキャラクターをその手に掴むことを目指すだろう。