当面の原則的な態度として、小説以外のフィクションについてはあまり明確に態度を決めずに自然体で接していることにしている。そのようにこころがけている。

としていると、どうなるか。

アニメ。

中二病でも恋がしたい!』を自らにとってナチュラルに見ると、俺は鑑賞中たいてい頭を抱えながらうめいていることになる。

理由はもう本当に単純なもので、そこで映像の表面を満たしているキャラクタの可愛さと倫理のギャップにうめいているのだ。

六花が勇太に殴られて、「あぅ」とうめいていることに、俺はうめいているわけだ。そこに可愛さがあるから俺はうめいているわけだ。なにがしらよく分からないことを喋っている女の子が暴力を行使されて理解可能な言動に変化する、という一連のプロセスの落差に「可愛い」という情報を載せることで、じじつ客観的に可愛くなっている様子を見てうめいている。

けれど、ここで俺は益体もないことを考える。

俺が『中二病でも恋がしたい!』を見てその暴力行為にうめいていることと、アニメに韓国料理が出てきたことでいきどおることと、一体なんの違いがあるだろうか?

もちろんロジックの形式はまったく同じだ。作品を内在的に読むのではなく外部から規範的に(暴力はよくない・韓流はよくない)倫理を導入して、規範批評的に受容する。同じだ。あるいは原作改変という点ではサムゲタンに憤怒する方が内在的な点からもより正当なのかもしれない。俺は『中二病でも恋がしたい!』の原作を知らない。

そして、問題点はそんな論理形式ではなく論理内容であることも分かりきっている。外在的に受容する以上、問題なのは外部の「暴力」「韓流」いかんの議論であって、作品ではない以上当然のことだ。ここまで脳内論理の生成は数秒である。発生、終了。しゅうりょう。

こうしたくだらない問いはなんら生産的な情報をうみはしない。ということも分かっていて、堂々巡りである。

自然的態度でフィクションを受容してもそろそろ無理がある、ということなのかもしれない。

おそらく見るべきは本当に純粋に表層である。「中二病とは?」といった概念や論理の議論をしてもまったく無意味である。キャラクタにロジックは必要ないという荒涼とした考えが脳内を覆っている。正確に言えばキャラクタにロジックはもちろん必要であるのだが、そのロジックの質を問われることはない、ということだ。我々にとってのキャラクタがまずそのヴィジュアルによって成立されている以上そうなのだ。

だから、六花というキャラクタの「演技」を見なくてはいけない。声優や作画や脚本という分割線はまったく不当である。もし孤独にフィクションを受容するならなおさらそうだ。そのキャラクタがどう在るか、表層を見なくてはいけない。

ということなのだろう。

と、今後のアニメ視聴の態度を決定するために以上の文章は書かれた。それが今わかった。

ま、それでよしとしよう。

蓮見重彦ちゃんと読もうかなー。

朝日の中でねむる御休み。