ココロコネクトの件について

昼12時前後に寝床から抜け出す。なにがしかの炭水化物とカフェインを摂る。

それから、ネットを見たり、本を読んだり、バイトをしたり、たまにはレポートを書いたりして、時間が過ぎる。

時々ひとに会う。二日か三日に一回。

このところはそうして生きている。

 

炎上について書いておきたかったのだ。

ココロコネクトの炎上だ。詳細を書くことはしない。検索すればある程度の情報は分かるだろう。きっと数年後もその情報すべてが灰燼になることはないだろうから、ここに残すこともないだろう。

めったにないほど真面目に観ようとした作品で、それは原作ラノベをずっと追っているからなのだが、それがこういう形で否定的なイメージが付加されるということには、どうしてももどかしい悲しさみたいなものを抱かずにはいられない。ある種の理路にしたがって考えるならば、炎上したことの事象と作品の出来いかんとはほとんど直接的な関係がないのだから、作品の精査には影響しないはずだ、とか言えるのかもしれない。が、そう上手くも受容できるはずもなく、べたべたとどこにでも貼りつき侵食していく穢れのイメージが、作品を見ようというおのれのこころもちをためらわせる。そうして後から、ああ俺はココロコはつまらないつまらないしかしあのおぞましさには価値があると言いつつも、見ることをたのしんでいてしかもそれが大部分だったのだ、という解釈が脳内を占めていく。そのプロセスも耐え難いところがある。

言語の自動作用=文法に則り模倣を繰り返すこと、によって炎上が駆動するということ。インターネットというインフラが言葉・文字によって成立していることが、炎上の苛立たしさを強くする。畢竟、俺は文字を信じていないのだ。正確に言えば、文字が固有の人間によって書かれるのだという事実を信じられていないのだ。だから、苛立たしい。それに俺は世の中のすくなくない数が抱いている、「実際行動する奴はえらい」という価値観をやはり抱いていて、ネットで炎上させる行為が日常的なネットに悪意を書き連ねる行為と弁別ができないがゆえに炎上を「行動」と認めてなくて、それもやはり苛立たしくさせる理由なのだろう。だとしたら、義憤やら好奇にかられての暴力やら盗撮やら殺人やらを俺は肯定するのだろうか。

きっとそうだろう。

もし、そうであるならば、少しは苛立ちも収まるだろうに。

(ほんとうにろくでもないことだ)