『カゲロウデイズ――in a daze』試論:PV小説のはじまり

某所に掲載した小説版『カゲロウデイズ』の評を転載する。

 

一見、単なる稚拙な小説に読めてしまう。漠然とした描写の文の連なりが、のたのたと延々するように続いていく。記述の自動運動に淫してしまった、書くことの自制をまだ覚えない小説と読めていく。

「仕方ない、いくらニコ動で人気のボカロPとはいえ、初めて小説ってやつを書いたんだ、文章が小説の文章になっていないのも、もっともだ」

そうゆう、安易な読解へと流れていく。

確かに、その感覚は正当なものを大いに備えている。読者の視線移動のために削ぎ落とされた文章と、これまでの小説への目くばせで組み立てられたテクニカルな物語に慣れ親しんだ読者の目には、『カゲロウデイズ』はいかにも粗雑な文の群れに見える。

けれども、同時に、不当な視線、不当な「ことば」への視座がそこにある。

もちろん、ひとつの小説を外部的に読む、つまり、その小説に内在する価値を掬い上げようとせずに、経験的規範的に読み落とすことが愉しい読み方のひとつであることは認めよう。だが、『カゲロウデイズ』をどう読めばいいか、ページに記されている言葉をどう噛み砕けばいいのか、その前提を用意しないのはあまりにもこの小説を不当に狭めてしまう。理解の経路が準備されなくてはならない。
そのため要請される補助線がPV、プロモーション・ビデオだ。

この小説がボカロ曲を小説にしたということの意味はそこにある。大抵の洗練された小説の描写が、読者に体系だった、つまりキャラクターをその主柱として関連づけられた情報をうまく配置していくのに対して、『カゲロウデイズ』の描写はただひたすらPVを生成するためだけに尽力する。コメントが流れていくあの狭く、小さな画面を充溢させるようなPVをつくりあげるために言葉が与えられ、統一された意味を形成することなく次々と増殖を繰り返す。そしてそこに、突き放したような、いきなりの運動、歌詞的な断言が交じる(もちろんそれは歌詞そのものなのだが、これが曲ではなく小説なのだということには一線を引いておく)。

このことは『カゲロウデイズ』における単語の選択に、もっとも端的にあらわれている。「引き籠り」「デパート」「テロリスト」などの単語はあまりにも杜撰で、われわれの日常世界、これまでの数々の小説が蓄積してきたイメージからかけ離れている。

しかし、これは我々の日本語がいまだPVを指し示す語彙が貧弱な故に過ぎない。これらの語が表出しようとしているのは「狭い部屋でパソコンに向かっている人間」「巨大なひとつの影絵のような建物」「銃を持った、倒されるべき敵」というPVの映像であり、そのようにPV化することのできないイメージは徹底的に削ぎ落とされているのだ。
そこでもうひとつ重要な点は、PVと小説を繋ぐもの=「物語」である。

「物語音楽」という概念がPV小説を可能にする。ここでの「物語」は既存の小説の「物語」とは決定的に異なる。物語音楽の物語とは複数の楽曲を横断し楽曲を連結させる考察可能なすべての「なにか」だ。ひとりの人物の行為という原初的な構成単位は同じくしながら、通常の物語が複数の人物の行為の意味を組織化し、関係性へと収束させるのに対し、「物語」は暴力的に行為を行為だけで積み上げ、そのところどころ潰れて混ざり合ったその地点を物語と言い放つのだ。
このPV小説という可能性から『カゲロウデイズ』は再読される。そのための素地を準備するのにこのレビューは費やされた。

小説を読むことはここから始まる。