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ガチレズ大井bot第2部、ライトノベル性、あるいは帰ってきたドラえもん。
それらに共通するのは「続けなければいけない」という強固な命題だ。果たして欲望と呼ぶべきなのか外圧と呼ぶべきなのかは定かではない。けれども、たしかなことは、次なる何かをこの手が生み出さなくてはならない、ということだ。
そんな強迫観念に追い立てられて、作品たちは走り出す。
足取りはまるで鉛のプールでもがくみたいに。
軽やかに舞うのなら2つの手があった。扉も窓も締め切った部屋の中で鏡さえも見ることなくステップを踏むのか、あるいは私以外に世界などないのだと心の底から思い知ることができるのか。
だが、そのどちらも取ることはできなかった。もはや作品たちは自らの定義のなかに、誰かへと開かれ、見られ、反応されることを深く深く取り込んでしまって、そうでない自分など考えることすらできなくなっていたのだ。
一片の隙間もないような濃密な視線のなかを、泳ぐことなど到底かなわないのに、けれど、進まなくてはならない。そうでなくてはならない。でも、どうすればそんなことができるのか。
作品たちはまったく何も持っていない、のではない。
作品たちの手には、もうすでに書かれた己がある。今となってはどうしてそんなことが可能だったか思い出すことさえできないが、かつては確かに作品ができていたのだ。だから、できない筈なんてないのだ。この手にあるものをぎゅううと握りしめて、冷え切った足を振り上げるしかないのだ。
そうやって、「続編」とおおざっぱに呼ばれうる多くの作品たちが走り出す。すでに書かれた己と私をつなげるというやり方を唯一の方法にして。
つなげる。「つながる」のではなく「つなげる」。だから、そこに現れるのは全面的な言葉への信仰だ。言葉こそすべて、論理こそすべて、物語こそすべて。続編と呼ばれうる作品たちにしばしば現れるのはその祈りの敬虔さだ。
続編たちの福音書の冒頭はこう始まるだろう。
「はじめに言葉があった。言葉は妄想と共にあった。言葉は妄想であった」
けれど、それはまったくの嘘だ。はじめに言葉があったのではないし、言葉は妄想と共にあったのではないし、言葉は妄想であったのではない。妄想はまったく異なる形で作品の起源となっていたのだ。けれど、続編たちはこの錯誤を正典にして胸に抱えて生きていく。そうでなくては走ることなどできやしないのだ。
続編たちは走っていく。巧くもなく美しくもない足取りで走っていく。目をそらすことは簡単で、私たちはいつも気がつかぬうちに作品たちが今もまだ走っていることさえ忘却してしまう。だから、願わくば続編たちが、たとえどんなに醜いフォームでも構わないから、私たちがいるここよりも遥か遠くまで走っていってほしいのだ。