最近は『後宮楽園球場』の花刺(フワーリ)はやっぱり素晴らしいのではないか、という思いを抱いている。

設定というよりは、その名前の眼触り。イメージの衝突のその感覚をキャラクターと呼ぶこと。そうでもなければあまりにも言葉が貧しすぎるものだとしてこの世界をしてしまう。そのようなリテラシーがあることを私たちに認めるべきなのだ。

名前というものは貧しい。正確に言えば言葉は貧しい。もっと正確に言えば文字は貧しい。あるいは活字(さもなくばデジタルな文字)が貧しい、ということかもしれない。

まあ、とにかくキャラクターの情報だと提示される(行為や発言や感情や個人情報)、その時に示されるタグづけが、小説では名前でなされるが、その名前という文字はあまりにも、私たちが人格に魅入られてしまうような執着をつなぎとめておくには、貧しい。その名前が表象として立ち現れる人格を愛そうとしても、まず第一に名前という言葉しかないのだ、小説には。

ヴィジュアルの、ひと目の瞬間に固有性が感知できる、そのような本来的な私たちの世界に対するリテラシーのような、エミュレーションを行う能力をある、と信じよう。