書く、という試みをなんとかこの手に取り戻さなくてはいけない。

なんとか再開したいと思っています。

 

『終末なにしてますか? 忙しいですか? 救ってもらっていいですか?』を読む。

よくできている。「よくできている」という感覚こそが、より一層の絶望をもたらしてしまう。それはコンテクストの地獄でもある。
洗練されている。洗練されているのだ。作者と編集者の二人三脚によって目指される、洗練という中心への志向の軌跡がひとつの形を結ぶとき、そこに現出したのはいわば純粋な設定厨とでもいうべきこの作品である。
純粋な設定厨とは、通常考えられているような設定厨とはまったく異なる作品である。私たちが設定厨とみなす作品というのは人間にとっての設定厨である。無限に緻密に展開されていくアラベスクのように、設定厨には人間の生きるというひとつの私たちにとっての真理が細部にまで満ち満ちている。なろうの作品群には、人間の為という意味においてまったくシンプルな設定厨をいくつもみることができる。
しかし、『終末…』は違う。
ここにあるのは作品が作品であるための設定厨であって、この作品がライトノベルという世界において代替不可能な唯一のなにかであることのための設定厨だ。この純粋な設定厨は、この作品の世界設定をそのまま自身にも適用しているかのようだ。人間がいなくなった後でも自動的に書き続けられ出版され続け読まれ続けるライトノベル。そのひとつの純粋な形式を私たちは目にしている。