お正月くらいからどうにもうつうつとしていたのだけれど、元気になってきている。

最近は映画をみてばっかりな気もする。

『ムアラフ 改心』

イスラーム映画祭で見た映画その3。マレーシアの監督ヤスミン・アフマドの作品。マレーシア映画では最近の有名な映画監督だったのだけれど、2009年に死んでしまった(とのこと、人づて)。なかなか巧い。改心というよりは、幼い頃のキリスト教の厳格な家庭に性を抑圧された華人の男が、ムスリムの姉妹に触発されて、家族(および宗教)と和解するという話。撮り方の淡々としている感じがよかった。暴力性とか性とか過去の書き方とかがすごく日本映画っぽかった。ほとんど岩井俊二じみていた。

『カリファーの決断』

イスラーム映画祭その4。インドネシア映画。画質や撮り方なんかは素人まるだしではあるが、脚本がなかなかよかった。

美容店で働く主人公が家族を養うためもあって、サウジからの買い付けをしてるイスラムに忠実な男と結婚して、夫に従ってイスラム的な生活(ついにはニカブもつけるようになる)をしていってインドネシア社会から浮いていくが、夫が実はジハディストで警察に殺されてしまうし、実は別の妻もいたことも発覚し、最終的にはニカブを捨てるが、完全に前に戻るわけではなく、ジルバブをつける。そんな感じ。

世俗にしろイスラムにしろ、どちらにしても絶えずなにかの居心地の悪さが漂うインドネシアという空間がよく描けていたように思う。その居心地の悪さは、ジハディストの圧倒的他者感とも繋がっている。そのまったくの無根拠性。それはやはりアラブでもペルシャでもトルコでもない、インドネシアというイスラームにとっての周縁の世界での現われ方なのだろう。そこでは、アラブ世界では決して出版できないようなISだとかジハディストだとかの本が平然と出版されるような、諸々のすべてが無根拠に並列している、そんな世界で生きるということだ。

ねこごぜを読む。

ふたりの関係がちょっと、充足しきっていて、その安定感が間延びしてしまっている印象。しかし、朝霧の巫女もこまさんの話まではこんな感じだったような気がしなくもない。夜梅と鶯の関係をこれから崩してくるのだろうけれど、それまで待つ必要がありそう。

あと、設定だけど、ほんとに1950年代? チェキストがインターナショナル歌っている感じは革命直後っぽいし、永続革命と言ってるあたり明らかにまだトロツキーとか国内で生きている感じなのだが、しかしスターリンの肖像貼ってるし、うーん。

 

ゲーマーズ1。よい。これが職人の技というものか。後半はただただページをめくることしかできなかった。するすると手際よく関係を多重化していく手つきは素晴らしい。

だからこそ、ゲーム同好会をつくるのは過去のイデオロギーに囚われた愚かな選択だったのではないか。なによりも火力が下がってしまう。5角の複雑な人間関係を魅せていくうえで、それらの関係をコミュニティという概念に翻訳することは、圧力を弱めてしまう。共同体をつくってしまえば、そこでいくら対立や不和が起きても、コミュニティ自体はまったく厳然と外在できてしまう。「ゲーム」というコンセプトがある以上、このコミュニティの呪力は彼ら彼女らを殺してしまうのではないか。

あるいは、本当はキャラを殺したいのかもしれないけれど。

雑事と雑事と雑事をこなしているうちにすぎていく師走。

イスラーム映画祭に行き、『法の書』『神に誓って』を観る。パワーがあった。よい。某ハッサンがいて、ちょっとおもしろかった。

ウェルベックの『服従』を読み終える。ウェルベックであったが、とくにイスラームではなかった。ナチュラルに自然淘汰(神が絶えず介在しないプロセスとして)を肯定していたが、ヨーロッパのイスラムとかはそういう派閥もあるのでしょうか。『素粒子』のSFガジェットをイスラームにしたという感じで、10年後には読めなくなっているタイプの小説であったので、読みたい人はなるべくはやく読んだほうがよいのではないかと。

文章、特に描写の安定感がすさまじかったことは事実だけれども。

さむくてさむくて、さむい。

 

ガルパン劇場版を観にいった。いつも映画は渋谷でみるのだけれども、調べたら渋谷ではやっていなくて、こないだ新聞で映画の街渋谷は凋落して新宿に中心は移ったと書いてあって、その真実味の一片をかんじた。

映画は、順当にテレビシリーズの延長のファンディスクという感じで特になにか言うようなあれではなかった。カンフー映画やチャンバラ映画にも似た、おだやかな退屈。

とはいえ、中盤の閉校からの隔離のシーンは、テレビ版ではミリタリーのマテリアルな偏愛だけになるように注意深く除かれていた政治的なものの扱いが、例外的に全面に出ていて、前半と後半のアクションシーンを特に繋げることもなかったのが気になるといえば気になった。

木造校舎の壁に飾ってあった写真がなぜか原爆投下の写真(だった気がしたんだが……)で、それではっとさせられて以降は、かなり敗戦後の日本のニュアンスを色濃く押し出していたことを否定するのは難しい。やさぐれる風紀委員の行動はあきらかに特攻崩れのそれであるし、食糧問題の示唆に、特に、戦車がサンダース学園に保護されて、もう一度サンダース学園から戻されるあたりは、完全に「日本の再軍備だ…!」とわなわな思っていたのだけれど、じゃあそれが何か意味をなしていたかといえば、そういうわけでもない。後半のアクションシーンの全校ドリームチームを、戦後日本の国際協調という夢・日本イデオロギーとか言えなくはないかもしれないが、べつにそんなことはなかろう。

そんな感じ。

『ホワイト・ゴッド』を観にいった。終盤までは非常によかった。特に犬たちのシーンはどれも素晴らしかった。人間の歩行とは根本的に足の動かし方が異なる四肢の駆動のリズムが絶えず画面をきちっと支えていて、純粋に感動した。

けれど、最後に犬たちが保健所から一斉に逃げ出して街へと繰り出して以降はちょっとひどい。災害としての犬たちの蹂躙という製作者たちのイデア技法としては洪水の様式としてのスローモーションと、ホラー映画の文法としてそれは実現される)が、完全にそれまでの犬たちの素晴らしさを殺してしまっている。主人公の犬が捨てられて、人間に捕まるまでの間のシーンはあんなにも神がかっていたのに。

そして人間たちのドラマはよくわからない。主人公の少女は(もうひとりの主人公である雑種犬とともに)明らかに大人たち(基本的にはほぼ男。例外的に女性である唯一の交換主体としての彼女の母は新しい若い夫とオーストラリアに行くことで彼女を中年の元夫に預ける)によって交換される対象であって、しかもそれが性的な欲望であることがあからさまに提示される。父による近親相姦=親子の愛情の欲望の対象として(結局最後まで近親相姦と親子の愛情の間に違いはないものとされつづける)。

そうした欲望の交換対象であることに当初は彼女は反発し続けるし、父親とのコンフリクトが絶えず起こっていて、ああこれは客体から主体へとかで話をつくっていくのかな、と思っていたのが、家出してクラブで夜を明かして警察に保護されたあとはすんなりと父親と和解し、それはつまり近親相姦を受容するということで(それまで父が背を向けて直視していなかったタンクトップとショートパンツ姿の彼女が父の隣に座って親密に会話したり、父が彼女の着替えを手伝う=靴を履かせてやるというシーンで露骨に表される)、ええーそうなるの?と驚愕してしまった。しかも、タバコは思いを寄せる若い男に止められ、クラブで渡されたドラッグも結局使用せずに彼女は父と和解していて、それはもうひとりの主人公である犬が闘犬家の男に引き渡され、薬物も含めた肉体改造によって狂犬にさせられてしまうのと著しく対照的なのだ。

狂犬となった主人公は犬たちを率いて街を蹂躙するのだが、彼は自分を傷つけようとした肉屋や闘犬家を殺しはしても、少女の男たち(彼女の通う音楽学校の教師とそして何より父親)はひとりも殺すことはできない。

最後のシーンで犬たちは彼女と父に狂暴に対峙するのだが、最終的には少女のトランペットの音によって恭順してしまい、それでエンドである。少女が音楽学校に通い、才能があると深夜まで教師と一対一のレッスンをしているように、何度も学校を逃げ出す少女に対して学校に行かせることに父親が執着するように、トランペットはまさに彼女が欲望されているものそのものであるのだが、その男たちの欲望の音によって狂犬たちは宥められ従順となる。ふつうに意味がわからない。なんでそんな社会の勝利みたいなエンドにしているのか。うーん。近親相姦と社会の勝利という結果のほうが、今の抑圧的なハンガリーっぽいといえばそうなのかもしれないが、しかしもうちょっと何かエクスキューズがないと、気持ち悪さがどこへもいかずに脱力感にしかならないような。

そんな感じでした。